「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ビッグコミック創刊物語 ナマズの意地」(滝田誠一郎)

  


ビッグコミック創刊物語―ナマズの意地


昔から小学館の雑誌が好きだった。「学年別学習雑誌」「少年サンデー」「コロコロコミック」「週刊ポスト」「FMレコパル」「BE-PAL」「GORO」そしてビッグコミック。(・∀・)


さてこの本。ビッグコミックを創刊した小学館の第二編集部は、かつては行き場のない編集者が集まる“吹き溜まり”と社内で揶揄されていた。小西湧之助は吹き溜まりを水の澱んだ沼になぞらえ、自分たちを泥底に棲む夜行性の小ナマズにたとえ、“でも、いつか世の中を揺り動かす大ナマズになってやる”と誓った。その思いがビッグコミックを生み、ビッグコミック・ファミリーを形成し、そして人気情報誌を次々に生み出していく原動力になるのである。これはナマズたちの意地の物語である」そのエッセンスを紹介しよう。



・それまでの漫画雑誌に載っている作品は長くても8ページや12ページくらいだったが、その程度のページ数で読み応えのある作品を描くことは難しい。毎号32ページなり48ページなりの紙幅を使って “大人の鑑賞にたえうる読み応えのある作品” を描けるだけの実力を持ったマンガ家ということになれば、その候補となりうる漫画家もまた自ずと限られてくる。小西(湧之助)が考える漫画家の実力とは単純明快で、個性がはっきりしていること、問題提起力があること、そしてエンターテインメントの密度が濃いことの3つにつきる。


・それを吟味すると、作家の人選もまた自ずと落ち着くところかに落ち着いた。ご存知漫画の神様・手塚治虫、劇画の雄さいとう・たかを、高校生の頃から “天才”としてその名を知られ、驚くべきペースで作品を量産していた石森章太郎、『墓場の鬼太郎』『テレビくん』『悪魔くん』など独特な妖怪漫画で40歳をすぎて人気漫画家の仲間入りを果たした水木しげる、そして『忍者武芸帳』や『カムイ伝』でカリスマ的人気を博していた白土三平ー以上の5人である。この5大作家競演による豪華ライナップを実現するために、小西と田中の2人は企画室に異動になった直後から原稿依頼に奔走することになるのである。


さいとう・たかを「私は昭和33(1958)年に上京して、その翌年に劇画を制作する漫画家の集まりとして劇画工房を結成するのですが、その頃から劇画は将来絶対に大衆小説と肩を並べるような作品を生み出すようになるぞとまわりに言っていた。ただ、当時はこっちもまだ技術も伴わないし、ドラマを描きたいと思っても脚本家もいなかった。絵を描く才能とドラマを作る才能は別ですから。そう考えていち早く分業制を採り入れてより完成度の高い作品を送り出せる体制作りをまずは行ったわけです。そうこうしているうちに私が一番のターゲットにしていた団塊の世代がそろそろ大学生になり、少年漫画を卒業する年齢になってきた。1965、6年ですね。彼らに見せるものを今作らなければということで私は必死になっていたんですよ。焦っていた。ですから小学館が大人向けの漫画誌を出すと聞いたときは自分の長年の夢が叶った気がして嬉しかったし、この仕事は何があってもやならければと思った」


・小西「石ノ森さんていう人は、天才肌の人で、描くことに苦しむってことがない。そこが強みでもあり、弱みでもある。手塚さんは天才だけど、苦しみ抜いた人ですね。自分自身で心のカサブタをはがして血を流し続けた。すごい人ですよ。石森は手塚治虫を追いかけられる唯一の天才だったが、若くして大人になりすぎたきらいがある。人がよすぎた。優しすぎた。だから天才と呼ばれても手塚のように神様と呼ばれる存在にはなれなかった」


さいとう・たかをに80ページ、石森章太郎に48ページ、水木しげるに32ページ、手塚治虫に “描けるだけ”(実際は31ページ)そして白土三平に32ページーというように狙い通りの執筆陣に連載が決まると雑誌のタイトルもこれまた自ずと決まった。ビッグな作家を起用して大きく育てるという意味でビッグコミック


『ボーイズライフ』は若さで作った青春の産物、ビッグコミックは30代のときで、これは意地の産物。『FMレコパル』は計算の産物。そしてBE-PALは何かというと夢の産物ー小西湧之助


特に、「『ビッグコミック』が成功した4つの理由」「『ゴルゴ13』幻の最終回」はなーるほど!と唸ってしまう。そおかあ!ナマズってそういう意味だったのね!?オススメです。(・∀・)



  


ビッグコミック創刊物語―ナマズの意地