「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「翔べ イカロスの翼 青春のロマンをピエロに賭けた若者の愛と死」

 


翔べイカロスの翼―青春のロマンをピエロに賭けた若者の愛と死 (1978年) (翼シリーズ〈3〉)


この本は……感動した……さだまさしの名曲道化師のソネットの元になった映画。もちろん当時から内容は知ってはいたが、映画化も知ってはいたが、本が出ているとは知らなかった。1978(昭和53)年かあ……レコードが1980(昭和55)年だから16歳、高1だなあ……ちょうどフォークソング部に入った頃だ。(・∀・)草鹿宏著。そのエッセンスを紹介しよう。


・最初にサーカスと接近したのは、命がけで生きる「芸人の世界」を撮るのが目的であった。その間、雑用をさせてもらうことを条件に、彼はテントに住みついた。だが、外側から芸人を撮ることに飽き足らず、自分もサーカスの人間になりたいと彼は願った。もともとサーカスの内部は、ひとつの大家族である。芸人は親子か、きょうだいか、夫婦者がほとんどだった。それまでは無縁の人間が、大卒で命がけの曲芸をおぼえるなどという前例は、もちろん皆無である。しかし彼は自分の信念で、それに挑戦した


異常な努力と根性で、彼は一輪車、二輪車、綱渡りと、ひとつひとつ難しい芸をマスターした。坂鋼やオートバイの曲乗りに至るまで、けっしてひるまなかった。深夜、みんなが寝静まってから、徹はひとり練習に励んだ。怪我を恐れては芸の進歩もない。その執念で、半年後には早くも初舞台を踏んだ。彼は芸人になり切っていた。屈託のない明るい性格で、小さな子供たちの面倒もよくみた。サーカスに関する文献を集めて読み、海外のサーカスを研究し、ときには団長と議論を戦わすこともあった。


・そして入団三年目の頃、彼はピエロを志願した。日本のサーカスが、いまだに子供相手の見世物という印象を拭いきれないのはピエロの芸が軽視されているためだ。ピエロに取り組みたいという彼の熱意は、団長を感動させた。独学で得た知識で道化のイメージ作りをし、メイクや衣装も自分で手がけた。鏡の前でピエロの演技に取りつかれた。パントマイムの第一人者ヨネヤマ・ママコに弟子入りし、個人レッスンを受けた。


「ピエロのクリちゃん」はキグレサーカスの主役になりつつあった。司会を引き受け、自転車乗りや高綱渡りもやってのけた。客席はわき返ったが、これでは平日二回の公演でも約4時間は出ずっぱり。休日はその二倍。普通の芸人とはくらべものにならなかった。だが、彼は弱音をはかない。フィナーレが終わると同時に、ピエロは出口に飛んで行興奮で頬を上気させた子どもたちに「ありがとう、ありがとう」と笑顔をふりまいた。握手を繰り返し、いっしょに記念写真を撮った。白塗りの顔が流れる汗でくしゃくしゃになった


「キグレにいいピエロがいる」「ショーの流れが変わってきた」と、サーカス業界で彼は注目されはじめた。名実とともに日本一を目指すキグレの水野団長も、彼を自分の片腕と思っていた。すで彼はサーカスの骨格をになうほどの存在であったが、彼は初心を忘れたわけではない。ある時期がきたらサーカスをやめ、写真作家として独立するのが夢だった。「芸人を撮るために芸人になった」体験と自信が、本当に役立つのはそれからである。世界中を回ってサーカスを撮り続けたい。外国のサーカスの舞台にも立ってみたい。


・その彼が転落事故にあったのは水戸市の興行中だった。ひとことの遺言もなく、まだ二十代の若さで彼は短い一生を終えた「ピエロのクリちゃんを死なせないで」「神様に祈っています」という電話がサーカスにも病院にもかかった。電話口で泣きじゃくる子もいた。こんなにみんなから愛された芸人があったろうか


「無難な人生を選びたくないと言って、好きな道に飛び込んで行った徹に、悔いはなかったでしょう」と父親は涙ぐんだ。「彼はずっしりと重く、大きなものをわれわれに残して逝った」と水野団長。マイムの師ヨネヤマ・ママコは「無気力な若者たちと正反対な生き方をした彼を殺したのは、“常識”という名の綱だったかもしれません。太陽に近づき過ぎたあのイカロスが、翼を奪われて海に堕ちたように……。私には至純な魂を持った若者の死が、今の社会に対する抗議のように思えるのです」


おれがサーカスに関心を持ったのは、そこには人間の生き方の原型があると思ったからだ。物質だけがあり余る現代社会で、エゴイズムをむき出しに生きているやつがあまりにも多い。その対極にあるのが、芸に命を賭けながら旅から旅をつづけているサーカスの芸人たちではないだろうか。サーカスでは俗に“渡り者三年”と言う。マスターするまでに三年かかるという意味だが、おれにはそんな時間がない。人の三倍けいこして、三年を一年か半年にちぢめなくては……。



ショーの全体を支えるピエロになりたい。高度な芸のスリルと、ピエロの笑いが絶妙なハーモニーをつくり出すところに理想的なサーカスの芸がある


・水野団長「徹がわれわれに遺して逝ったものは何であったか。単にピエロの芸ということじゃなく、もっと大きく。もっと重いものだった。ずぶの素人で、けっして器用でなかった彼が。異常な努力と情熱で日本のサーカスを内側から変えようとしたんです」


三木のり平「彼は孤独だったんじゃないか。だから人一倍夢が必要だったと、おれは思うんだ」


・毎回舞台が終わると同時に「ピエロのクリちゃん」はテントの出口に飛んで行き、拍手をしてくれた子供たちのひとりひとりのお別れの握手をした。顔の化粧が流れ落ちたのは汗のせいばかりではなく、いつまた会えるかわからない子供たちの注ぐ「ピエロの涙」があったからだ。ひまを見てはサーカスの芸人の子に勉強を教え、遊び相手になった。後輩に芸を教えるときも、根気よく、自分もいっしょになって励ましながら、完全に覚え込むまで面倒を見た。徹くんのやさしさは、みんなの心に深くしみ渡っていた。「ピエロのクリちゃん」の短かった28年の生き様が、われわれに教えてくれたことはあまりにも多い。


栗原徹さんの日記を元にしているので、リアルなその情感が伝わってくる。超オススメです。(・∀・)


 


翔べイカロスの翼―青春のロマンをピエロに賭けた若者の愛と死 (1978年) (翼シリーズ〈3〉)