「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「“キックの鬼”沢村忠伝説 真空飛び膝蹴りの真実」(加部究)

 


真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説


小学生の頃、テレビで放映されていた「キックボクシング」。そしてアニメにもなったキックの鬼沢村忠真空飛び膝蹴り。スゴい人気だったよねえ〜〜!それがいつのまにか消えてしまい、ずっと忘れかけていた。


さてこの本。いわゆる「あの人はいま?」モノなんだけど、実は奥が深い。


真空飛び膝蹴りで一躍お茶の間のヒーローとなりながら、引退後忽然と姿を消し、謎のベールに包まれたキックの鬼沢村忠の真実とは?連続KO記録117というとてつもない金字塔を打ち立てられたのはなぜか。人気絶頂から引退後、忽然と姿を消した理由は何だったのか。自分を語ることを避けてきた寡黙な男の知られざる真相をすべて明かす」そのエッセンスを紹介しよう。



・沢村には「格闘技のピークは27歳まで」という固定概念があった。散り際の美学には人一倍の拘りがあったのである。ところが実際、沢村が27歳を迎える頃、所属する目黒ジムは約600人の選手を抱えていた。沢村がリングに上がらなければ、興行は成立しない。とても沢村が個人の美学に固執するわけにはいかなかった。30歳を超えると、周囲から超人視されてきた沢村の肉体も徐々に衰えを見せ始めた。右膝を痛めジャンプ力の低下は如実だったし、スタミナが切れるのが早くなり、自分の繰り出す技に往年の切れ味を感じられなくなってきていた。


・もともと真空飛び膝蹴りは、圧倒的な技量とスタミナ、それにジャンプ力という裏付けがあって初めて可能な技だった。マスコミは「飛べなくなったキックの鬼と書き立てたが、それは誰よりも沢村自身が切実に感じていた。



・この頃、視野に霞がかかり、虫が飛ぶようになる。網膜剥離である。そして何より沢村がショックを受けたのは、慈恵医大で行った脳波測定の結果である。波形に明確な乱れが見られ、医師は「とても選手を続けていいいとは言えませんね」と話した。常識はずれのスケジュールで壮絶な戦いを続けてきた影響は、気付かないうちに身体のあちこちに刻まれていた。真空飛び膝蹴りという出口に向けたトンネルは、ただ漆黒の闇に包まれ、まだ果てしなく続く気配だった。沢村はもう32歳になっていた。だが8年間続いてきた状況に少しも変化はなかった。要するにキックボクシングは依然として沢村におんぶにダッコだったのである。「このままじゃ、キックは続かないな……」コーチに転じた安倍らも、同僚たちと不安を口にするようになっていた。


・「もともとは映画のシナリオライターを目指していた物静かな青年だった。好きな文章を書いて、時々空手でも教えられればと考えていたと思う。それが野口社長と出会ってキックボクシングブームという激流に呑み込まれていった。一時は視聴率も30%を超えていたほどだったからね。沢村はテレビ時代の被害者という見方も出来る。テレビで人気が出て地方興行の依頼も殺到した。沢村は無理して走り続けなければならなかったんだ。私としてはせめて月に2〜3試合くらいに抑えてほしいと思っていたんですけどね。あんなに打たれて、いつパンチドランカーにならないか心配だった。沢村はまさにキックボクシングの歴史そのもの。もしキックがワールドワイドなスポーツとして確立されていたら、きっと中田英寿イチローのように外へ飛び出していったんだろうけどね」


キックボクシングは沢村の引退とともに、まるで風船が萎むように急激に衰退してしまう。結局は空前のキックブームも沢村とともに訪れ、沢村とともに去っていった。沢村もすっかり一般的な労働者として社会に溶け込んでいった。「煙のように現れて、いつの間にかいなくなる」かねてから沢村はそんな現役生活が送れればいいと思っていた。そして見事に自作自演のシナリオを完了したのである。


あの三冠王を獲った時の王貞治をも超えた「ONをも凌いだ人気」はその凄さがわかるといもの。いい時代だったよねえ。YouTube沢村忠の映像を見続けちゃったよ。沢村流の散り際の美学。サムライだったんだねえ。男らしいなあ。超オススメです。(・∀・)



真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説