「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「九相図をよむ 朽ちていく死体の美術史」(山本聡美)

 


九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史 (角川選書)


またまた仏教の本。十牛図は知ってたけど「九相図」は知らなかったなあ……。(・o・)!


「腐敗し白骨化してゆく亡骸の様子を克明に描く「九相図」。仏教とともに伝来し、日本に深く根を下ろしたこの図像には、生と死、そして肉体の無常をめぐるいかなる想いが秘められているのか。豊富な図版とともに探る」そのエッセンスを紹介しよう。



・東洋には、死体が腐敗し白骨となるまで九の相で表す、九相図(九想図)と呼ばれる絵画がある。これは、死体の変化を九段界に分けて観想(いわばイメージトレーニング)することによって自他の肉体への執着を滅却する、九相観(九想観)という仏教の修行に由来する主題である。「相」は眼で見たイメージの世界、「想」は心で観じたイマジネーションの世界。九相図には、その二つの意味が交錯している。


・私はその絵に魅せられ、以来、九相図について考え続けている。典拠、使用目的、図像の展開、意味の変容、時代を超えて書き継がれた理由。今でもわからないことは多いのだが、20年以上の歳月をかけてこの絵について考えたことで、解けた謎もある。日本美術の歴史を貫いて流れる九相図という豊かな水脈が見えてきた。


・西域から中国を経て日本へ、東漸する仏教とともに1500年以上の時を超えて継承されたこの絵に祈りや願いを込め多くの人々がいた。死体を描いた九つの相を凝視することで、生命のあやうさへの戸惑いや畏れが心を捉える


仏教の修行では、観想が重要な意味を持つ。身体を安静に保って心を落ち着け思考を深める瞑想の一種であり、具体的な形象を心に想いうかべる点に特徴がある。特定の対象に意識を集中し、その形象を通じて物事の本質を捉えることを目指すのである。


あらゆる仏教美術は、観想を補完するための手段として存在しているといっても過言ではない。壮麗な寺院も、仏像も、仏画も、仏教に関わる全ての造形は、釈迦が菩提樹の下で到達した世界を追体験するために生み出された装置である。時空を超えて、釈迦が獲得した究極の真理にアクセスするための方法、それが観想なのだ


・また、いわゆる念仏も観想を発展させたものである。「念」は「観」と同じ意味であるので、念仏とは元来、仏の姿を心に思い浮かべる行為をいう。それが発展して南無阿弥陀仏と仏の名を声に出して称える行為も念仏と呼ばれる。前者を「観想念仏」後者を「口称念仏(称名念仏)」と呼び分けることもある。大乗仏教において、観想は出家者だけに限られた修行だけではなく、在家の信者にとっても身近な行いであった。


不浄観は、出家者が、自分自身や他者の肉体に対する執着を断ち切るために、皮膚・筋肉・体液・骨・そして死体などの不浄の様子を観想することをいう。数多くの経典に説かれており普遍的な修行であった。


不浄観のうち、死体を九段界(ないしは十段階)に分けて観想することを特に九相観と呼ぶ。


1 脹相(ちょうそう、死後硬直しガスで膨張する)、2 壊相(かいそう、日に曝されて皮肉が破れる)、3 血塗相(けちずそう、皮膚の裂け目から血があふれる)、4 膿爛相(のうらんそう、腐乱する)、5 青瘀相(しょうおそう、ミイラ化する)、6 噉相(たんそう、禽獣に食われる)、7 散相(さんそう、四肢や五臓が散乱する)、8 骨相(こっそう、骨となる)、9 焼相(しょうそう、骨を焼く


すなわち、九相観を行うことで、どんなに美しい容姿も汚物の上を仮の姿で覆い隠しているようなものであると知り、淫欲を防ぐことができると説いているのである。いかなる権力も富も、若さや美しさも、無常の理から逃れることはできない。人間の存在は、水に浮かぶ泡のようなものである。この無常という概念が、九相図をめぐるもうひとつの重要な潮流を生み出した。中国、そして日本で育まれた九相観の文学である。


……本当に人生って無情だよねえ……。実物を観てみたい。オススメです。(・∀・)


 


九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史 (角川選書)