「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「男でも女でもない性・完全版」インターセックス(半陰陽)を生きる

いや〜この本はオモシロイわー。知らなかった…。この世には男と女の二つしか無いのではないのだ!


男性器と女性器をあわせもって生まれた著者が、新生児の段階で性別を手術で決めてしまう現在の医療を批判し、自分史を通じて“性の自己決定権”の確立と「第三の性」の存在を主張する」そのエッセンスを紹介しよう。


人の性には、まず先天的に獲得する胎生期の、1性染色体の構成(x染色体とy染色体の組み合わせの構成をしているか?)、2性腺の構成(卵巣、精巣、卵精巣、線状性腺に分化しているか)、3内性器形態(子宮に分化しているか?前立腺に分化しているか?)、4外性器形態(陰唇やクリトリスに分化しているか?陰嚢やペニスに分化しているか?)5誕生したとき医者が決定する性(女の子なのか?、インターセックス半陰陽)なのか?男の子7日?)、6戸籍の性(社会的な性的二元論)、7二次性徴(月経が発現するのか?勃起して射精するのか?どちらも発現しないのか?)、性自認(女性なのか?男性なのか?インターセクシュアル半陰陽者)なのか?その他)、性的指向(女性を指向するのか?男性を指向するのか?両性を指向するのか?)


このように、ヒトの性は、「先天的な性」と「後天的な性」とが複雑に重なりあった九つの性から成立している。

インターセクシュリティ(半陰陽者らしき)とは、九つの性がさまざまな形態で分化していることを指す。「人間の性は男性と女性しか存在しない」という考えは、「男性社会」と「女性社会」とが作り出した思い込みである。男性と女性の間には、多様な性のグラデーション(漸進性)が存在し、「多様な中間性が存在する」とう考えが、性に対する正しい認識である。


・ 私は誕生したとき、「男性」として判断され、戸籍も次男と登録されたが、二次性徴には男性化が発現しなかった。代わりに女性化が発現したが、月経は起こらなかった。私は社会的に与えられた「男性」というレッテルで苦悩し、性別社会に翻弄されつづけてきた。そのために、自分自身の性と「あるがままの私」を受容するのに32年という月日を必要としてきた。


・幼い私。医師が私の性器を覗き込み、外性器に触れて「こんな子どもはいくらでもいます。成長すれば変化しますよ」と母に伝えている。その後母は私とお風呂に入るたび、私の性器に触れて「小さい…」とため息をついた。私は母に性器を触れられることがとても不愉快で、「自分の身体は恥ずかしいもので他人にには絶対見せてはいけないのだ」と私自身を否定的にとらえていた。

・ 小学校四年生の頃、プールの授業で男子更衣室で男の子たちがワイワイ騒ぎながら、水着に着替えをしているとき。私はほかの男の子との差異に初めて気がついた―「私の身体と違う」と。そこので騒いでいた男の子の一人が「お前のオッパイ大きいなぁ」と言いながら私の胸を触ってきた。それは私にとってとても侮辱的でショッキングな事件だった。家に帰って母に伝えるとただ裾のやたら長いシャツを私に渡し、これで胸と性器を隠せと言った。私はこのことがさらにショックだった。自分自身の身体は恥ずかしいもので、他人には絶対に見せてはいけないことを知ったのだ。私の身体のコンプレックスとトラウマはこのとき植え付けられた。


・私とM君は、マンガを読みながらなんの脈絡もなく唐突に「将来M君のような男の人と結婚したいな」と言った。M君は「男同士は結婚できないよ」と答えた。「どうして?」私は小学校六年生まで、同性同士で結婚できると思い込んでいたからである。


私は少年ではないのか?私はいったい何者なのか?少女なのか?少年少女以外の者とはいったい何者なのか?私の性意識は混乱しだした。


私は何者なのか―たしかに性器は男性の形をしているようだ。でも彼らと私は何かが明らかに違う。体も心も。たしかに似てはいるけれど、どかで必ず食い違い、すれ違う。そんな私が男だとはどうしうても思えない。女性たちといると、私はやすらぎを覚える。でも私は彼女たちのようになれない。共感することも多い。それでも、私と彼女たちはどこかが決定的に違う。まるで私と男たちの関係のように。


「九つの性」があるなんてビックリだねえ。オススメです。(・o・)