私が子どもの頃、野球に興味を持ち始めた頃は、すでに西鉄ライオンズはなく、太平洋クラブライオンズだった。そうかあ、大洋と太平洋かあ!似てるなあ!と思ったものだ。そしてその後、ドラフト会議でクラウンが江川卓を強行指名という大事件が起きるのだ。
野武士集団にして「最強」の誉れ高き西鉄と、洗練されたエリート集う「常勝」の西武。その狭間の時代にあったのが、太平洋クラブ・ライオンズとクラウンライター・ライオンズだった。一部選手の八百長行為「黒い霧事件」を機に求心力を失った西鉄の後を受けて誕生した「福岡野球株式会社」は、1973年から4年間は太平洋、1977年から2年間はクラウンを冠し、パ・リーグ苦闘の時代を懸命に生きた。その6年間をめぐる旅に、一緒に出かけよう。
・「黒い霧事件」で戦力、人気を失った西鉄は、72年限りで球団経営をストップ。引受先探しは難航を極め、パ・リーグ自体が存亡の危機に貧したが、ロッテ・中村長芳オーナーが買収を引き受け(自身はロッテのオーナーを辞任)親会社を持たない「福岡野球株式会社」を設立、今でいうネーミング・ライツの形式だった。プロ野球歴史において稀有な存在だった73〜78年のライオンズ。戦績は6シーズンのうちBクラスが5度、最下位2度だったが、今あらためて成績を見なおしてみると、資金難で戦力補強が制限されていた状況下ではむしろ健闘といっていいだろう。
・元選手は全員、口々に「本当に貧乏な球団だった」と語った。このチームには自前の練習場がなかった。移動用のバスがなかったから、選手たちは基本的に現地集合、現地解散。遠征の際にはホテルで食事は用意されておらず、1日5000円強の「ミールマネー」で済ませるしかなかった。練習用のボールにも事欠くありさまだった。外国人獲得も途中帰国、来日が白紙になったり話題先行で実が伴わない。貧乏ならば貧乏なりにアイディアを絞って何か話題を生み出す。人気のないパ・リーグ、ましてや九州の「辺境球団」と揶揄された太平洋・クラウンは何とか生き残るべく奮闘する。それに呼応するように、数は少なくとも熱狂的なファンもいた。選手たちもフロントも、そしてファンも、みんなが熱く激しく駆け抜けた6年間だった。
▲ 土井正博
・77年ドラフト会議で法大の江川卓を強行指名、そして入団拒否。江川に翻弄されたこの年クラウンは消滅。中村長芳オーナーの私財を切り崩すことで何とか維持した球団経営も風前の灯火を迎えていた。そこに現れたのが西武だった。それまでの「極貧球団」と呼ばれていたのがウソのように、西武には潤沢な資金があった。79年所沢に本拠地を移し、西武ライオンズは誕生する。この瞬間、西鉄時代から続いた九州ライオンズはついに息絶えた。
・それでも太平洋・クラウン戦士たちは新天地で意地を見せた。そのままライオンズに残った東尾修、大田卓司、永射保らは西武黄金時代を築いた。
▲ 東尾修
阪神に移籍した竹之内は個性的な打撃フォームでセ・リーグ投手陣を震え上がらせ、真弓は首位打者を獲得。大洋ホエールズ移籍の基満男は「江川キラー」としていぶし銀の活躍を見せ、
▲基満男
若菜は阪神、太陽で正捕手の座をつかんだ。弱く、貧しく、たくましくー。粗にして野だが卑ではない。今から思えば夢のようなチーム、それが、太平洋・クラウンの6年間だった。
これはプロ野球ファンにはぜひ読んで欲しいよね。先人たちの苦労があって今のライオンズの、パ・リーグの隆盛がある。オススメです。(・o・)!
追伸 この本も併せてオススメです。(・∀・)
「極貧球団 波乱の福岡ライオンズ」(長谷川晶一)
歴史に埋もれていた太平洋・クラウンの六年間。あの時代に何が合ったのか?男たちはどんな思いで過ごしていたのか?
・西鉄時代の基満男にとって、「野球は男のロマン」だった。しかし、この瞬間から基にとっての野球は「ロマン」から単なる「仕事」にかわったのだった。西鉄ライオンズは消えた。代わりに、太平洋クラブライオンズが誕生した。それは、波乱の6年間の始まりでもあった。後に坂井保之球団代表が「身をよじるような責め苦にさいなまれた日々」と振り返ることになる。球界史上類を見ない「極貧球団」の道のりを歩むこととなった。
・少しでも赤字を補填し、黒字に転じるためにはどんなことをしても話題を作るしかなかった。坂井の頭にあったのは、「無から有に転じるには話題作りしかない」という思いだった。故障を承知の上でハワードを獲得したのもそんな思いからだった。赤字脱却のための切り札は「ロッテ・金田正一との遺恨劇」しかなかった。
・伊原春樹にとって、稲尾和久監督のイメージは「ひたすら耐えている監督」というものだった。たとえ戦力であっても、たとえ選手たちがミスをしても、口汚くののしったり、物にあたったりする姿を見たことはなかった。若き日の伊原にとって、公私ともに尊敬できる監督、それが稲尾だった。
・ピンクレディーの「サウスポー」のモデル・永射保が影響を受けた中洲のスナック「ドーベル」の池永正明。
「マウンドに立ったらバッターなんか見ない。打席に入っているバッターのデータはすべて頭に入っている。だから、バッターは見ない。見るのはネクストバッターサークルに抱えている次の打者だ。常に、次のバッター、次のバッターを頭に描いて投げるんだ。前の版には一試合分のシミュレーションは済んでいる・それをもう一度思い出しながら、マウンドに上がるんだ」
「ピッチャーもバッターも同じグラウンドに立っとるやろ?でも、同じ目線に立つことは絶対にできん。なぜならピッチャーはマウンドの上に立ってるからだ。グラウンドは真っ平らやろ?でもマウンドはグラウンドで一番高いんやぞ。マウンドに立っとる人間が一番偉いんや。監督、コーチは一段下がったところにおるんやぞ。監督やコーチよりも、バッターよりもピッチャーの方が偉いんや」
その他、「幻のペプシライオンズ」「オフシーズンになるとアルバイトをする若手選手」「二人の中学生プロ球児」「さまざまな貧乏エピソード」など。
あの頃、懐かしいなあ。よかったなあ!太平洋!どちらもオススメです。(・∀・)