「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「スプーン 超能力者の日常と憂鬱」(森達也)

私が好きなドキュメンタリー作家、森達也氏。知らなかったあ…超能力者のドキュメンタリーも撮っていたんだね。題して「職業欄はエスパー」
スプーン曲げの清田益章、UFOの秋山真人、ダウジングの堤裕司。果たして、超能力は存在するのか、否か?そのエッセンスを紹介しよう。


世の中には二通りの人がいる。自分に超能力があるかどうかに関心がある人とない人だ。僕はどう考えても後者のタイプということになる。超能力という未知の能力が実在しているのかどうか、未だに僕にはわからない。現象は何度も目撃している。でも、「あなたは信じますか?」とう問いをもし発せられたら、答えようとしてたぶん僕は口ごもる。


秋山眞人 堤裕司 清田益章


この三人が、八年前に僕が選んだ超能力だ。僕はこの三人に固執した。三人以外は視野に入らなかったと言ってもいい。理由はわからない。でも自分の選択に自信はある。理由は言えないが自信がある。たぶん、この「曖昧な確信」という矛盾した情感に「超能力」という現象の本質と、見守る僕らの実相とが隠されている。


(清田)ずっと俺は、自分のためにスプーンを曲げてきたんだよ。ガキんときは成功するたびにみんなが喜んでくれることが嬉しかったしさ、色気づいてきたら女にもてるぞなんて思って必死に曲げてたよ。こんなこと言ったら誤解されるかもしれないけど、スプーンの気持ちが何だかわかるような気がしてさ。変かな?変だと思うよな?何て言うかさ、スプーンだって曲げられたり折られたりするためにこの世に生まれたはずじゃないわけでさ、悪いよなあ御免よみたいな気分に生まれて初めてなったんだ。それからだな。スランプはすっかり消えてしまって。


・自分が常人とは違うという意識は当然あったと思う。でもそもそも「違う」ということは何を表しているのだろう?過剰なのか。それとも欠落なのか、超能力はいったいどちらなのだろう?過剰は祝福されることなのか?欠落は忌み嫌われることなのか?清田益章は何者なのだろう?なぜ彼だけがこの能力を与えられたのだろう?同世代の他の超能力少年たちが次々と淘汰されてゆくのに、なぜ彼だけがこうして能力を維持し続けることが出来たのだろう?清田は何を後世に残すのだろう?何を残すために、こんな能力を与えられたのだろう?


大槻義彦安斎育郎などの否定派を、そのスタンスゆえに批判する気は僕にはない。さらさらない。しかし否定したいがためにムキになるこの詐術と論旨の短絡は、はっきり言って醜悪だし唖然とする。僕がどうしても気になるのは、彼らが共通して持つこの強引さだ。たぶんそれぞれの専門分野では、真摯に、冷静に研究を重ねているのだと思う。そんな研究者たちがなぜ超能力というジャンルにコミットする瞬間に、ここまでヒステリックに我を忘れてしまうのか、その意識メカニズムが僕にはとにかく不思議なのだ。


・(清田)後からやっぱりトリックだとか言われたくなかったからな。大槻先生に箸を持ってもらって捩(ねじ)ったよ。「やっぱりホンモノなんですねえ」って言ったんだよ。このひと言ははっきり覚えているよ。テレ朝のスペシャル番組に呼ばれたんだよ。収録前の楽屋に大槻先生が訪ねてきて『清田くん、このあいだ会ってスプーン捩りを見せてもらったことは内緒にしといてくれませんか』って言うんだよな。何とかなりませんかって頼み込んできたんだよ。


実にオモシロイ!なぜ「隠そうとするのか」そして「放送することが怖くなった」は、実にリアルだ。結論を知りたい方は読んでね。オススメです。(・o・)!