「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「幻想の英雄 小野田少尉との三ヶ月」(津田信)

先日、読んだこの本。あの元日本兵の小野田さんのイメージがガラッと変わったよね。(・o・)!


小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか」(斎藤功)http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20150911


そして、この本に転載されている本を図書館で探しだしたのが、この本は、小野田少尉の手記のゴーストライターによる告発の書なのだ。小野田少尉は英雄だったのか!?それとも虚像だったのか!?そのエッセンスを紹介しよう。


・昭和49年4月15日から約二ヶ月。伊豆の伊東で小野田寛郎と生活を共にした、毎日一緒に飯を喰い、一緒に風呂に入った。彼の手記「戦った、生きた」(週刊A)を代筆するためだ。私の興味は、小野田寛郎は本当に29年間敗戦を信じなかったのか、という一点にあった。日本のほとんどの人が抱いていたのではないだろうか。彼の発見、救出がまったくの偶然によるものか、あるいは何か大きな機関による巧みな演出か、私にはいまもってわからない、だが、そこにまったくの作為がなかったとはどうしても思えない。もし偶然なら、まことに稀有な偶然である。


小野田寛郎は声が低いうえ、大変な早口であった。しかも語尾が口のなかで消えるようなしゃべり方なので、耳慣れないうちは話の内容の半分も理解できなかった。身を乗り出して耳をそばだてたが、それでも聞き取れず、途方にくれたことが何度かあった。寛郎の話しぶりにはほとんど間というものがなかった。一旦しゃべりだすと、機関銃のように切れ目がなく、そのうえ時間的な繋がりを無視して、前後に飛躍する。初年兵時代の話をしながら、いつの間にかルバング島での経験に飛び、エピソードを語るにしても、いつどこで、という前置きがなく、いきなり人名や地名が出てくる。喋りたいだけ喋るとふっと沈黙する。


・最も強く感じたのは、彼の「自信」でった。「島で最後まで自分が生き残ったのは、いついかなる場合も細心の注意を怠らなかったからだ。島田や小塚も、自分のように用心すれば殺されないですんだはずだ」ともいい「自分は島民から射撃の名人といわれていた」と自慢した。彼は島民たちを「ドンコー」と呼んだ。それには敵意と憎しみしか感じられなかった。あまりにも敵意がむき出しで聞いているうちに次第に不快になってきたのもたしかだった。


私は小野田寛郎の「核心」に触れたかった。30年間もなぜルバングで頑張りつづけたかという疑問に対する彼自身の謎解きである。ジャングルから出なかったのは敗戦を知らなかったからではなく、もっと別の理由ー例えば、島民の復讐がこわかったからではないのか


毎日4時間も話を取材していたが、手記にそのまま使えるエピソードは意外に少なく、しかも無駄話に限って彼の話はうんざりするくらいくどかった。しかし何よりも私が困ったのは、彼がほとんど感情を語ろうとしなかったことである。いくら聴いても口を閉ざしたままであった。当人が語らない以上、こちらが勝手に憶測で書き加えるわけにはいかず代筆しながら私は常に、肝心かなめのひと言が不足しているもどかしさを覚えた。はじめの頃、彼が感情を語らないのは、彼のはにかみととった。この男は意外にシャイなのかもしれないと思った。しかし彼は、くつろいでいる食事中も感情表白については極端に口数を惜しみ、まるで心を語ることが女々しいとでも思っているようでさえあった


・手記に織り込めない話のほうがはるかに多かった。たとえば島民殺傷問題である。「殺したのは30人くらいです。ドンコーの奴ら、こっちがおとなしくしているとすぐつけ上がって、銃をぶっ放しながらどんどん山に入り込んできやがるんです。だからわれわれも懲らしめのために撃ち殺してやったんです。こっちはプロですからね。撃ち合いなら負けやしません」もはや明らかに殺人であった。少なくとも戦いではなかった、というのは、彼の話を注意深く聞いているうちに、島民たちには殺意がないことがわかったからである。


ルバング島にきてますますはっきりしたのは、彼の占領地域が日頃島民が寄りつかない、というよりほとんど必要としない山岳部だったことである。彼自身が生存するには必要な地域だったかも知れないが、戦略上、鼠以下の生活をしてまで守らねばならない地域とはどうしても考えられなかった。


「30年間、楽しいことは一つもなかった」ー記者会見で彼はそう言ったが、ひょっとすると、苦しいこともそれほどなかったのではないのか。もし、苦しいことの連続だったら、とても30年、辛抱することはできない。何とかその辛さから抜け出そうとするはずである。彼が抜け出さなかったのは、それほど堪えがたかったわけではなかったのだろう。


小野田寛郎は自分に都合の悪い、理解し難いものはすべて謀略だと片づける一方、自分に都合のいいものはごく素直に受け入れて、そこに少しの矛盾も感じない人間だったからである。とっくに軍隊がなくなっているのだから、今更上官の命令なんて意味がないと思うのが常識だが、彼の内部では、軍組織の消滅と上官の命令とが何ら矛盾せず融合していた。そこに小野田寛郎のユニークさがある。


元陸軍少尉・小野田寛郎は、だれのために、何のために、30年もルバング島にいたのだろうか。

その他、「寛郎の兄弟」「横井庄一との対談を拒否」「オレは親に棄てられた子」「小銃のかわりになったカメラ」「30年戦争への疑問」「絶句する長兄」「なぜルバング行きを阻止しようとしたのか」「原稿削りの作業にため息」「書きなおされていた原稿」「小野田さんには閉口」「野坂をひき殺してやる」など。


真実はどっちなのだろう…!?興味のある方、ぜひお読み下さい。(・∀・)