「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「しんがり 山一證券 最後の12人」(清武英利)


大証券の一角を占める山一證券が自主廃業を発表したのは、1997年11月。野澤社長の号泣記者会見は今でも映像で浮かんでくるよね。

店頭には「カネを、株券を返せ」と顧客が殺到し、社員たちは雪崩を打って再就職へと走り始めた中で、会社に踏み留まって経営破綻の原因を追究し、清算業務に就いた一群の社員がいた。

山一證券社内調査委員会」という。看板や辞令もなく、権限のはっきりしない人々の集まりに過ぎなかった。見返りのない、ひどく損な役回りではないか。「しんがり」の人々は転職を繰り返した。嘉本隆正元常務「会社が潰れて全員が不幸になったのか。否ですよ。会社の破綻は人生の通過点に過ぎません。私はサラリーマンとして、幸せな人生を過ごしました。」 山一廃業に隠されたドラマとは!?そのエッセンスを紹介しよう。


・「検討した結果は、自主廃業しかありませんね。社長に決断をしていただきたい。(債務隠しを)ディスクロージャーするタイムリミットが近いと考えいてます。これを伸ばすと現経営陣の責任問題になると思いますよ。こんな信用のない金融機関に免許を与えておくことはできません。これは非公式ということで、お話しします。山一に飛ばしという法令違反があると、会社更生法による再建は困難です。


・別の中堅社員は、わずか六日のあいだに二度も、会社の経営破綻に直面した。北海道拓殖銀行から山一證券に出向していたのである。拓銀が破綻したぞ」と知らされた。出向社員だからいずれ拓銀に戻る身だったが、その拓銀が無くなってしまった。「それならうちに残れよ。山一の社員として頑張れ」と誘われた。「ああ、救われた」と思った五日後、今度は山一の社員から自主廃業のニュースを告げられた。もう帰るところはなかった。


・野澤社長「私は取締役会で選任される前日に、三木前社長に『いろいろあるが頼むな』と言われました。その六日後に、山一には含み損が二千五百億から二千六百億存在するとの報告を、藤橋常務から受けました。こんなものがあったのかと、数字を聞いたとき、立てなくなるくらいびっくりしました」


・山一社員の半分以上は女性である。彼女たちにとっても会社消滅は明日からの生活がかかった現実の悲劇だった。コツコツ買い増してきた山一株が紙くずに化けて、老後の資金を失った社員が続出している。働く場がなくなるだけでなく、多額の個人資産を失ったのだ。


・調査には自分を含めて7,8人は必要だが、そもそも人手が集まるのか。辞令もなく将来にもつながらない仕事でる。おまけに大物OBや野澤をはじめとした現経営陣にも事情聴取しなければならないのだ。その対象は百人近くに上がる可能性もある。


自主廃業を宣言した山一がすぐに始めなければならないことが三つあった。一つは、すみやかに営業を停止し、本支店を閉鎖するように社員を導くこと、つまり敗戦処理である。山一自体の資産を売却したうえで社員に再就職を斡旋することもその中に含まれる。二つ目に、顧客から預かった24兆円の株券や資産を早急、かつ正確に返還することである。すなわち精算業務だ。そして、三つ目が債務隠しの真相を暴く社内調査である。このうち、厄介なのは時間のかかる精算業務と嘉本が引き受けた社内調査だった。


「人が変死したら司法解剖するだろう。山一の廃業も変死のようなものだよ。だから解剖して、株主やら社員やらお客さんに説明する責任があるんやな」「自分の母親の介護だったらどうですかな。損か得かはあまり考えず、子供たちの誰かがやるでしょう。どの会社も最期は誰かが看取ってきたんじゃ。どんなサラリーマンにも、そんな気持ちは眠っているんですなあ」


この12人の行動は、神様仏様が見ていてくれたんだろうなあ…。オススメです。(・∀・)