「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「微笑む慶喜 写真で読み解く晩年の慶喜」(戸張裕子)

徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜明治35年66歳で公爵に叙せられ、名誉回復なった慶喜はその後十余年をどう生きたのだろうか?この本は貴重だ。こんなに多くの写真が残っているとは!?天皇、元勲、幕末維新の徒、旧幕臣たちとの関係は?明治華族界を彩り豊かに描く。そのエッセンスを紹介しよう。


徳川慶喜の五男池田仲博は、あるとき息子の徳真(のりざね)にこう打ち明けたという。「俺も若かったよ。おじいさまに、なぜ、大政奉還してしまったのですか、と聞いてしまった」すると慶喜は、「あの時は誰がやっても、ああしかできなかった。ただ、私は多くの人を不幸にしてしまったので、たくさんの人から恨まれているのだよ」と、静かにこたえた。仲博16歳(慶喜57歳)のころだという。


・朝敵の汚名をこうむり静岡に蟄居謹慎してから四半世紀。その間、明治2年、33歳のとき謹慎がとかれ、同5年正月には従四位に叙せられ、13年5月には将軍時代の正二位に復され、52歳になった21年6月には従一位に陞叙(しょうじょ)、位階が上がっていちおうの名誉回復はなっていたものの、いまだ公爵徳川家達(いえさと)の隠居の身分にすぎなかった。


西郷隆盛大久保利通もすでに亡く、明治憲法も制定されて法治国家としての体裁もととのってくると、世間では幕末維新が懐旧ををもって語られるようになっていた。同時に大政を奉還した徳川慶喜こそ真の維新の功労者ではなかったか、という声もあがってきた。それなのに、明治政府の慶喜にたいする処遇はあまりにも冷淡ではないだろうか。


・朝敵であった過去をお忘れなきようにと慶喜に自重をもとめつづけてきた勝海舟が、慶喜を帰郷させたいと宮内大臣意見書をだしたのは明治27年のことだった。これが契機となって30年1月、慶喜61歳のとき、東京・巣鴨への移住が実現する。


明治31年(1898)3月2日、慶喜は維新後はじめてかつての居城だった江戸城に足を踏み入れることになる。このとき慶喜62歳。その日、葵の紋服で参内した慶喜天皇は和服姿でむかえられ、日本間に招じいれて椅子をすすめられ、皇后ともども家族同様のもてなしをされた。亡くなった美賀子夫人の義理の妹にあたる美子(はるこ)皇后は手ずから慶喜にお酌をされた。「御取扱い向き甚だ厚き」もてなしに感激した慶喜は、退出するやその夜、家族一同をあつめて告げたという。「これ以上御遠慮申上ぐるは却って畏れ多き次第なり。至急大礼服を調整し、参内せしめたり」


慶喜の紋服姿には定評があった。某料亭の内儀(おかみ)も証言している。「あんなにお羽織のお似合いになったのは、一位さまだけでした」慶喜「一位さま」と呼ばれていた。


・これから紹介するのは、名誉回復をはたした徳川慶喜が、その後をどう生きたか、のこされたアルバムの中から節目の写真をえらびだし、さまざまな資料をもとに読みといてゆく、「写真板 その後の徳川慶喜である。それぞれの写真から何が見えてくるか、そこにはどんな人物が登場してくるか。政治や事件とは無縁な舞台ながら、さまざまな人間模様がうかびあがってくるはずである。それらから、慶喜晩年の心境をさぐりあてようというのが本書のねらいである。


慶喜は、実に風格があり、オーラがあるね。明治維新が身近に感じられる一冊。オススメです。(・∀・)