日本プロ野球界で永久欠番となった選手は全部で14人。王貞治、長嶋茂雄など、一時代を築いたそうそうたる顔ぶれだけど、その舞台裏には、球団のさまざまな事情が隠れていた!そのエッセンスを紹介しよう。
・日本プロ野球で永久欠番の栄誉を授かったのは、70年の歴史でわずか14人しかいない。オーナーやファンに与えられた欠番を含めても、17という少なさである。永久欠番に決まった選手と、涙をのんだ選手の違いとはいったい何なのか?
・1947年7月、日本プロ野球に初の永久欠番が誕生した。巨人軍の沢村栄治の背番号「14」、そして黒沢俊夫の背番号「4」である。沢村は激烈極まる戦火の中、1944年12月、台湾沖で戦死した。黒沢は1947年6月、現役のまま腸チフスのため急死している。伝説の大投手・沢村は別として、この黒沢の存在はそれほど知られていない。黒沢とはどんな選手だったのか?
・1965年1月、川上哲治が野球殿堂入りを果たし、背番号を「16」から「77」に変更した。そして、ここにきて巨人は物故者のみを対象としてきたその永久欠番措置を、初めて「存命者」である川上に適用することになる。
・プロ野球における背番号3の第一号選手で、「3」のイメージを形作った「田部武雄」とはどんな選手だったのか?
・背番号「1」が永久欠番になって24年。その間、巨人から永久欠番は生まれていない。
その他、「外様・金田正一に栄誉を与えた正力松太郎との死と「4」の亡霊」「監督退任の交換条件となった阪神・吉田義男「23」の永久欠番」「中日の永久欠番、服部受弘「10」と西沢道夫「15」、草創期を支えた二刀流の二人、杉下茂の威光が糾球団史を動かす!」「衣笠監督」誕生を遠ざけた国民栄誉賞と山本浩二のライバル心」「表面化で進むイチロー引退後の日米ダブル永久欠番「51」」「準永久欠番」誕生までの舞台裏。どの章もワクワクして読める。野球ファン必読!超オススメです。(・∀・)