「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「笹川良一伝 世のため人のために」(黒瀬昇次郎)


笹川良一伝 世のため人のために


10年前に読み、感動したこの本。その時から尊敬申し上げている笹川良一氏。再び読みました。またまた感動。途中で涙が出そうになりました。しかも笹川氏のご母堂様の名前が「テル」さんというからこれも不思議な御縁である。


著者の黒瀬昇次郎氏と何度かハガキをやりとりさせていただいた。黒瀬氏は、「日本で最も誤解されている男、笹川良一氏の評伝を書いています。次に出す本でこの誤解を解くつもりです」といっていた。

「日本一悪く言われた男、笹川良一。しかし、実際には世界一菩薩の人であった。世のため人のために一途に生きた笹川良一の実像を浮き彫りにする」そのエッセンスを紹介しよう。


・日常生活は一般庶民の生活より、はるかに低い貧弱なものであった。競艇を創業した56歳ごろから、寿命を終える96歳までの日常は、朝6時半に果物一個ワカメの味噌汁一杯、ご飯はかるく二膳。昼食は社員食堂が多く、夕食は朝と変わらない。ステーキや高価な日本料理は一切食べない。宴会には絶対出ない。魚も大きな魚、高いものは食べないから、刺身や照り焼きは口にしたことはない。骨ごと食べられるひとくちイワシや、雑魚を大根おろしで食べるのが好きであった。住まいは贅沢しない。周囲は豪壮な邸宅なのに、彼の家だけが軒は傾き、門柱は倒れかかっている。雨漏りはひどく、何カ所にもバケツや洗面器がおかれている。豪雨の日に、秘書が様子を見に行くと、笹川は仏頂面で、「雨漏りで人は死なないから心配するな。ご苦労」と言っただけで部屋に引っ込んだ。彼は一滴の醤油も大事にし、一粒の米も粗末にしなかった。倹約に倹約をかさねて積み上げた金を、すべて「世のため人のために」使いきった。


彼の願いは、「思いやりと戦争の絶滅」であり、人類を「貧乏と病気を老いの苦しみ」から開放することであった。「競艇事業」を立ちあげてからの笹川良一の生活は、死を迎えるまで、「給料なし」「休日なし」「ボーナスなし」「退職金なし」である。質素だから生活費はほとんどいらない。個人資産のほんの一部を当てれば足りる。残りはすべて社会に還元した。


熊野権現熊野比丘尼「おお、このお子の目は、人の世の苦しみも悲しみも、みな吸い取られるお目じゃ。自分の命まで人様のために投げ出されるお目じゃ。有難や、有難や。この子は、あなたがた夫婦のお子ではない。世のため人のために生まれてこられた、天からの授かり物のお子じゃ。大事に育てられよ。厳しく、そして正しくな」父・鶴吉、母・テルは、良一のための過酷な躾と教育が施されていく。


・父の遺言。「国家国民の為に行った好意であれば或いは法律に触れる様な場合があっても良心に恥づる処がなければ責むべきではない。だから大衆の幸福と信ずればどんな事でも思い切ってやれ。俺は死んでもお前の背に乗ってお前を守り通してやる」


「信じようが信じまいが、すべて無給。カネ持っとんのやから、財産持っとんのやから取っちゃいかん。カネ持っとんのは昔からのことや。生まれて、生きて、生かされてきた今日の自分の立場は、父母と神仏とご先祖様のお陰である。今の幸福な生活は天地万物の下されたものだ。これ以上財を蓄えてはいかん。取っちゃいかん。世の中にお返しせなならん」


・彼は、金を儲けることでは天才的にうまかったが、蓄財に興味はなく、儲けた金を投げ出して社会のために活かして使うのが道楽のようなものであった。「金は社会のために使う」というのが彼の鉄の意志だ


人間は生存中だけでなく、死んでしまったあとも世のため人のために役に立つことができるのだ。医学会では、いつも解剖用の死体を求めている、だが、近親者が死んだあともメスで切り開かれるのを嫌がるため、遺体がなかなか手に入らないという。そこで生前から申し出て、自分の死体を医学の進歩に役立ててもらう献体制度があるが、私はすでに献体してある。母(テル)も弟(春二)も、息を引き取ったあとの体を提供した。弟(了平)の場合は、いよいよ臨終の時が近づいたとき、すでに解剖のスタッフは準備を整えて待機していた、できるだけ生きているときに近い状態で提供し、お役に立てていただきたかったからである。いよいよ心臓の鼓動が停止し、主治医が臨終を宣告すると、遺体はただちに解剖室に運び込まれ、死後三十分後にはメスが当てられていた。医師団は深く哀悼の意を表してくれながら、医学にとってこの上もない材料を提供してくれたことに感謝していた。自分だけの一つのケーススタディとして新しい治療法や病気の根絶法が発見できないものかと、医師や看護婦に協力するようにしている、つまりモルモット代わりになっているつもりなのだ。


・私の悲願は、この地球上から戦争と貧乏と病気、不平等を追放するところにある。病気についてはWHOのお手伝いをして、ついに天然痘を絶滅することができた。いま目の前にある重要課題は、ハンセン病(ライ病)の撲滅だ。私は残された全生命を捧げるつもりで、日いちにちを生きているのである。


・笹川はマルコス政権下のフィリピンで、大統領夫人イメルダと、マニラのライ病院を慰問した。病室に入った彼は、患者の崩れた手をにぎってやさしいことばをかけた。それを見たイメルダ夫人随行厚生大臣は息をのみ、言葉を失って笹川のうしろに立ちつうした。たまたま食事の時間にぶつかると彼は、「私もみんさんと一緒に食べましょう」と、患者の作った食事を談笑しながらたべた。笹川の向かいの人は指が一本もない。輪ゴムをはめて手首にスプーンの柄をはさみ、半分くずれて歪んだ口にサラダを運んでいる、彼は慈愛にみちた目でいたわりのまなざしを投げる。食べ終わると、「皆さん、癒ると信じて元気に療養して下さい」とはげましの言葉を捧げる。食事を一緒にした指のない患者は、つぶれた目から一筋の涙を流していった。「患ってから40年になります。いろんな人が、いろんな物を持って見舞いにきて下さいました。しかし笹川先生みたいに、一緒に食事をしてくださった方は、先生以外にありません。おかげで、きょうのごはんが一番おいしかった」



笹川は、おどろくほどの「無私」に徹して己の人生を生き通し、そして死んだ。天下国家のためにほとんどすべての時間を使い切り、エネルギーを傾けつくした。彼は自分の時間と労力を浪費していては、世のため人のために活動する時間と労力を盗むことになる、と考え、ゴルフや宴会に一切出なかった。タバコも吸わないし、晩酌は健康維持のための、盃一、二杯である。年一回の人間ドック入りはモルモットになって、あらゆる実験材料にしてくれと、申し込んでいる。そして実験材料になった。年中休むことなく働き続け、何十という役職につきながら、一切給料を受け取っていない。過去の蓄財を食いつぶして生活費に当て、死亡時にはほとんど財産らしいものはなかった。


・笹川は、絵にかいたような「聖人、君子の道」を歩いた人間であった。こうした生き方は世界60億の人口のうち、一人でも居たらおかしいのである。仏典や漢籍、バイブルのなかに現れる「理想像の人間」はいるはずはないのだ。しかし、「居た」。笹川良一がそれである。筆者は「日本が生んだ奇蹟」と考えている。笹川は、「世のため人のために」一生をすり減らした人であった。彼は自分の行動を「世界一の阿呆ですわ」と表現する。だが、この世界一の阿呆の行為が、世界のひとびとが讃仰し驚嘆する社会奉仕団体、日本財団を創りあげたのである。この財団の世界に貢献した功績はかぎりなく大きい。われわれ日本人は、われわれ日本人の「こころと浄財」で築きあげたこの「財団」を誇りにし、その基礎を築いた笹川良一を、二十世紀が生んだグレートマンとして、世界に胸をはってもよいのではないか。


その他、「ロシア軍艦ナヒーモフ号引き揚げ」「金原明善物語」「孔子と伯牛」「佐久間艇長」「鉄眼の一切経のエピソードも心を打つ。このような人が日本にいたとは…。途中、何度も涙が出そうになった。百万分の一でもあやかりたい。大尊敬します。超オススメです。



こちらの本も併せてお読み下さい。

BOOK〜『悪名の棺 笹川良一伝』(工藤美代子)