「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「巨人軍V9を成し遂げた男」(羽佐間正雄)

子供の頃から野球ファン、そして巨人ファン。その頃のジャイアンツといえば、ON砲、言わずと知れた王貞治長嶋茂雄が全盛時。そして監督はもちろん、打撃の神様川上哲治

前人未到の9年連続日本一という大記録に隠された「勝利の法則」とは?実は「野村ID野球」の原点は「川上野球」にあった?そのエッセンスを紹介しよう。


・監督就任直後の川上には、唯一最大の課題があった。「この弱いチームを、どうすれば強くできるか」である。1961年(昭和36年)の巨人軍は弱いチームだった。長嶋茂雄は球界を代表する打者ではあった。しかし、王貞治はまだ穴が多い。レギュラー陣の最高打率は国松彰の二割三分八厘。投手陣は新人の堀本律雄が29勝したものの、他はヒト桁勝利。この「弱いチーム」をどうやって強くすればいいのか。川上は、やはり猛練習によるチーム強化を柱とした。一人ひとりが強くなる以外にチームが強くなる方法はない、というシンプルな結論に至ったのである。では、何をどのように強化するのかドジャースの戦法』を再読した川上は、「これだ」と膝を叩いていた。打への依存ではなく、隙のない野球のための機動力であり、個ではなく複数の連続が生み出す守りの試合運びであった。一言でいえば「一つの打球に対して、九人の選手の中で縁のない者はいない」という論である。


・一面では、「高校野球」とも揶揄され、「管理野球」という表現まで飛び出した。そのニュアンスを汲み取れば、「選手の個性を生かさぬ野球」「見ていて退屈な野球」に繋がる。極端な例として、監督・川上はONにもバントを命じた。そして、彼らに代打を送ることさえ敢行したものだ。王貞治長嶋茂雄は、日本プロ野球史上に類のない存在だ。だが、川上は信念を曲げなかった。試合の目標が勝つことにある以上、勝つための最善の努力をするのは監督の使命である」

・おそらくは不滅であろう九連覇という道を開いた偉業は、「決して監督一人の業ではなく、コーチという補佐役の団結にあった」と、川上は、ことあるごとにそう口にしたものだ。そして、監督自身は作戦遂行のうえで、勝つために有情・無常の両道を携行していくべきだとも、改めて説くのであった。


・巨人軍のベンチを去った川上は、長年、勝負漬けにあった日々からの開放感に少しずつ浸りはじめる。「バットを一本、車に積んで、気ままな旅をしたい。遠くへ行きたい、知らない町がいい。風の吹くまま気の向くままに、車を運転する。そして、草野球をしている子供たちを見つけたら、車を停め、トランクからバットを出して、バッティングの手ほどきをしたい。それなら自分の少年時代に回帰できるだろう。そんな心境にあった」と語ったものだ。


・少年野球での川上の第一章は、先ず子供たちを育てる指導者に向けて発信されるのであった。「誤った指導があると、取り返しがつかない」その信念からの主張が、信頼に肉付けされていくのである。元は投手出身である川上は左利き、プロ入り前から、すでに左腕は肘から曲がったまま伸びなくなっていた。少年時代からの誤った投球が、湾曲となって残されたのだ。「子供たちには先ず、カープを禁止します」


「忘れる」「没入する」「食べる」これが健康のための三箇条であるというのだ。「生まれつき繊細ではないので、過去は忘れるという性格に徹してきたと思います」「勝つ」を目標にして、都合の良いことも悪いことも次々と忘れていくうちに、忘れ薬は絶大な効能を発揮し、その産物として健康を維持できた。「没入」は、雑念、雑事を一切、振り払うところからはじまり、なりきる境地に達することである。「食べる」は野球選手にとって選手寿命を左右する重要な要素。


その他、「投手の一塁へのベースカバー」「日本初のスイッチヒッター柴田勲の誕生」「スコアラーという専門職を置いて相手チームのデータ収集、分析」「ミーティングを重視し、選手にレポートを書かせたこと」「選手時代の実績とは関係なしにコーチの起用をした」「マスコミの取材規制」「八時半の男・宮田征典による投手分業化」などなど。
              

なるほど!常勝・巨人軍の強さの源がここにあったのか!人心掌握術、自己管理法、忍耐術、組織論…、経営者、リーダーは必読!読むべし!(・∀・)



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