一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

「将棋の天才たち」(米長邦雄)


私が大好きだった、昨年亡くなった日本将棋連盟会長の、永世棋聖米長邦雄氏。五十歳にして名人位を獲得し、将棋史上に輝く最強棋士の一人だ。急逝までの四年半、毎週綴った珠玉の将棋エッセイを単行本化。やっぱり将棋の棋士は天才だと思う。そのエッセンスを紹介しよう。


大山康晴


「古今で最強の棋士は誰ですか」と聞かれれば、私は大山康晴です」と答えている。将棋が強いのはもちろん、勝負に強く運も強い。どの面から見ても非の打ち処がなく、約20年間天下を制した棋士だ。


谷川浩司


谷川浩司の評判はすこぶる良い。公私とも乱れることなく、品行方正のお手本であって、私が喜びそうな逸話はまったくない。反対に、東北地方で地震が起これば100万円を寄付するといった類の話は山ほどある。彼は神戸に住んでいて、阪神淡路大震災の時には谷川も被災者となったが、1月17日の震災から三日後の1月20日には私とのA級順位戦の対局が大阪で予定されていた。地震の翌日の18日、手合係(対局に関わる職員)に谷川からの一報があった。「私は生きている」と、たった一言だった。これは「対局が必ず決行する」という意思表示に他ならなかった。彼は焼け野原のなか、奥さんの運転で神戸を出発した。走るのもままならず、途中からは車を捨て、徒歩で神戸を脱出したという。なんでも11時間かかったとのことだった。そして対局当日、谷川と私は何事もなかったかのごとく対座した。その一局は私が負けたが、恐らくは谷川への、天のご褒美だったのであろう。


加藤一二三


加藤一二三九段ほど奇っ怪な行動の多い棋士も珍しい。たとえば、将棋盤の移動事件がある。対局はほとんどが午前10時に始まるのだが、氏は約30分前には入室して、盤の位置を自分の望む位置に移動するのだる。記録係あるいは手合課の職員が並べた盤の位置に異を唱える棋士は加藤さん以外にいない。数々の奇行とも思われる行動はさておき、14歳で四段になった記録と若干18歳でA級八段まで上り詰めた実績はさすがで、「神武以来の天才」と謳われるにふさわしい記録である。20歳当時、加藤さんは史上最年少の名人戦挑戦者として大山名人に挑戦し、1勝4敗で敗れたが、この記録も当分は誰にも破られないだろう。だが、もっと凄いものがある。18歳でA級入りしてわずか3年後、21歳でA級から落ちたのだ。神武以来の天才が、何たることか。最年少でA級から陥落したこの記録こそ、空前絶後の大記録だと断言する。もっとも翌年、すかさず復帰したのにも感服するのだが。


木村義雄


木村義雄初代実力制名人(明治38年〜昭和61年)は、私が最も尊敬している棋士である、将棋はもちろんだが人生、殊に女性観が素晴らしい。「木村名人の生涯の自慢というのはなんでしょうか」すかさず答えが返ってきた。「名人を取られたときのことだ。収入が3分の1になってね。わたしゃタバコ銭にもこまったくらいだった。生活の質を下げることは難しいことなんだよ。それまで付き合っていた女性達に話をしてね。納得して別れてもらったが、誰ひとり文句を言う女はいなかった。別れた女性から何も言われない。これが私の一番の自慢だ」若かりし頃の私は仰天した。「先生、大名人がそのようなことが自慢だなんて世間体が…」「米長君、男として一番大切なことはこれなんだよ」木村は、「急行の停まる町には女性がいる」という艶聞が立ったほどだが、そのひとつひとつが楽しい話ばかりであった。男の甲斐性とかは現代では死語であろうが、私が木村義雄を最も尊敬する所以は、木村が「男」だからである。


【最後の時】


人生は必ずいつか終わるもの。どのような形で投了するのか、あるいは投了させられるのか。最近はそんなことを考えるのが多いのも又事実です。痛みもなく苦しみもなく、寿命を全うできれば、これが一番幸せではないかと思い至るようになりました。悟りを開いた高僧になった訳ではありませんが、「人生すべて感謝である」これが今の心境です。


すべてを書ききれない!まえがきで谷川浩司、あとがきで羽生善治の二大棋士が著者の思い出を語る米長邦雄氏の生涯の決定版!オススメです。(・∀・)