「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「西本阪急ブレーブス最強伝説 弱いチームを強くする方法」(四家秀

プロ野球真っ盛り!セ・リーグでは読売ジャイアンツがぶっちぎりの首位を走っているけど、私が子どもの頃、ぶっちぎりのチームが存在した。それが、阪急ブレーブス監督、西本幸雄


1967〜79年の13年間を阪急ブレーブスの黄金期と呼ぶとすると(リーグ1位10回、日本一3回)、これは同時にマイナー・パリーグの代名詞でも あった。強すぎて人気のなかった阪急ブレーブス黄金期の形成過程を、つぶさに追う。 阪急ブレーブス、敗北と強化の軌跡。著者は、四家秀治氏。そのエッセンスを紹介しよう。



どうしようとなく弱いチームを最強チームにまで仕立てあげた男がいた。阪急ブレーブス監督、西本幸雄。彼は万年Bクラスだった阪急を5年間で文句なしでパ・リーグ№1チームにした。既存戦力からの逸材の発掘と底上げ、そして、若手、新人には卓越した育成能力を発揮し、多くの比類なき一流選手を作り上げた。シンプルな理論と、信念に基づく情熱あふれる猛練習。それは「七転び八起き」どころではない熱い思い、そして才能を見出す確かな眼力、何よりも豊かな人間力に支えられたものだった。確かに日本シリーズは、長嶋茂雄王貞治が選手として全盛期だった時代の巨人に5回挑んで5回とも敗れたが、負けるたびに、打倒巨人の炎は烈火のごとく燃え盛り、そのエネルギーはチーム強化に注ぎ込まれた。


・そうしてパ・リーグは、いつしか阪急の独壇場になったペナントレースを圧倒し、ついにはリーグ運営方針あで変えてしまった。彼が目指したのは、一年、二年とうたんいの小さな勝利ではない。まして外国人選手に頼るものでもない。もっと大きな勝利だった。正真正銘の「下克上」を成し遂げた男は、その後、これまた阪急同様超がつくほどの最弱チーム近鉄バファローズをも変貌させ、優勝に導いた。下克上を二回!!まさに、彼、西本幸雄は弱いチームを正攻法で強くした「最強の監督」なのである。


監督として率いた、大毎、阪急、近鉄三球団をいずれも優勝させている。2リーグ分立以降、三球団を優勝に導いた監督は日本球界では西本しかいない。そのうちの2球団、阪急、近鉄は、弱小だったのみならず、時にはパ・リーグのお荷物とさえ言われたチームである。こんな人を大監督と呼ばずに何と呼ぼう。


西本幸雄は信念の人である。その信念の第一は、猛練習至上主義だ。猛練習で個々の力を向上させ少人数ながら大毎監督として優勝した実績から、その信念には確固たるものがあった。阪急、近鉄を強くした理由を一つだけ挙げるなら、それは「猛練習」に尽きる。そしてその延長線上にあるのが、打者の育成である。「打者は育てられるが投手は素材」、西本は打てるチームは練習で作れると考えていた。


・81年、近鉄監督最後の試合、つまり監督生活最後の試合の終了後、これがたまたま阪急戦だったということはあるにせよ、近鉄と阪急の選手が一緒になって西本監督を胴上げした。こんな形で最後の試合を終えた監督は西本をおいて他にいない。「西本さんのやり方は間違ってない。だって、指揮をとったチームすべてで結果を出したじゃないですか。日本一になれなかっったのは…それは、つまり我々選手の力が足りなかったんです。本当に一度ぐらい日本一にさせてあげたかった」そいう教え子に言われる監督である。西本の下でプレーした選手は「幸せだった」と言い、他チームの選手の多くは「一度、西本さんの下でプレーしてみたかった」と言う。西本幸雄は日本一にはなれなかったが日本一幸せな監督であった」まさにそんな表現がピッタリの監督でもあった。


その他、「大事なところで失敗する監督」「西本はどのようにしてチームを強くしたのか」「強すぎる阪急」「阪急が強すぎてペナントレースが面白くないために2シーズン制に移行」「指名打者制」「73年、西本、阪急から近鉄の監督へ」「阪急黄金時代はつづく」「西本の選手育成戦略」「近鉄監督時代の検証」「それは本当に采配ミスだったのか」「西本最強伝説〜もし西本阪急がセ・リーグだったら?」



やっぱり西本さんは名監督だったね。チーム打率.273はV9巨人も達成していないんだって! チーム「格差」が目立つ昨今の日本球界、参照されるべきは「西本野球」だと思う。オススメです。