- 作者: 小野俊哉
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2011/12/16
- メディア: 新書
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さて、この本。過去、強かったチームと弱かったチームをを分析し、「なぜあの伝説のチームは強かったのか?天下を取り、野球史に名を残した優勝チームにスポットを当て、その強さに迫る」そして「逆にどうしてここまで弱いのかというチームが存在したのか?その敗北の本質は?」中でも史上最弱の、そして悲劇の球団の話を取り上げよう。
【高橋(トンボ)ユニオンズ】
かつて1950年代に、高橋球団というクラブチームのような名前の球団がパ・リーグに存在していました。1950年にセ・パの二リーグが分立し、パ・リーグは7球団でスタートしました。偶数球団構想のため、減らすよりも増やす方向で新球団を募集、それがきっかけで生まれた球団でした。オーナーは財界人で閣僚経験者の高橋龍太郎。「パ・リーグの7球団から中堅選手を5人ほど出し合って、新球団とすること」は決まっていましたが、いい選手を他球団が出すはずがありません。峠を越したロートル選手と、経験の浅い選手の寄せ集めでスタートするしかなかったチームでした。
高橋(トンボ)ユニオンズは、3年の短命で終わり、球団は消滅してしまいます。2年目のトンボは、42勝98敗1分、勝率ジャスト3割。当時のパ・リーグ規定の、勝率が.350を割ってしまったチームへの罰金500万円を支払う羽目に陥ります。3年目は東京六大学のスター、佐々木信也を獲得しますが、2年連続の最下位。消滅はやむを得なかったでしょう。経営が厳しく、ほとんど観客が集まらなかったためです。まさに、パ・リーグの悲哀です。佐々木信也によると「ある試合、あまりに観客が少ないので、セカンドの守備位置へ走りながら数えてみたら32人だった」。佐々木はプロ入団初日のキャンプの練習を終えただけで、「間違いなくセカンドのレギュラーは取れると思った」すなわち、高橋ユニオンズは、東京六大学よりレベルが下だったことを示唆しています。
「選手の練習量は東京六大学より相当少なかった。夜の素振りをする者さえ、ついに一人も現れなかった」多くの選手は夜になると飲みに出かけていたそうです。ですから、激しい闘争心をもって絶対に上を、という気持ちをチーム全体が共有することはなかったそうです。
チームの解散シーンが印象的です。57年3月のある日。球団社長が突然グラウンドに現れ、皆を集めると「きょうで解散することになりました。これから行き先をいう」と選手の振り分け先をさっさと述べて、終わり。あっけに取られるような終焉だったと聞きます。全員が移籍し、高橋は消滅。大映スターズがもっとも多く30人を引き受けました。その大映スターズも毎日オリオンズとの対等合併で、大毎オリオンズという名前になりパ・リーグは6球団制へ移行することになります。
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