「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『旅芸人のいた風景 遍歴・流浪・渡世』(沖浦和光)

旅芸人のいた風景―遍歴・流浪・渡世 (文春新書)

旅芸人のいた風景―遍歴・流浪・渡世 (文春新書)

芸人といえば、今は大人気の職業だ。テレビをつければ、芸人だらけだよね。(^。^) しかし江戸時代は芸人は、「河原乞食」と呼ばれ蔑まれていたのだ。

さて、この本は今はいなくなってしまった旅芸人について書かれた貴重な本。著者の子どものころはまだ旅芸人が存在していたのだ。そのエッセンスを紹介しよう。




・1930年代の芸人であるが、時節を定めてやってくる「門付け芸人」と、時を定めず年から年中流れ歩いている大道芸人の二種類があった。後者は旅芸人・辻芸人と呼ばれて、プロの芸能者の中でも最下級とみなされていた。彼らは「乞食」の類としてさげすまれ、「子捕りに攫われるから、あんなんについて行ったらあかんよ」と露骨に言う親たちもいた。


「物乞い旅芸人 村に入るべからず」 江戸時代から、村の入口にこのような立札を挙げているところが多かった。乞食や旅芸人は、村の風紀を乱すという理由で、みだりに立ち入ることを禁じたのであった。山深くて古い習俗が残っている伊豆地方には、まだそのような立札が目に付いたのだろう。


・初春や節分などの年中行事の際には、遊芸人の訪れは欠くことのできぬ民族行事だった。元旦などハレのときには、神や仏の借りの姿をした祝言人(ほかいびと)」として門毎に祝福を述べて回る。しかしひとたび日常的なケの時間に戻れば「乞食人(ほかいびと)」として賤視される。旅芸人も、温泉宿では遊びに来た客を慰めるエンタテイナーとして迎えられるが、それはほんの一時であって、享楽の時間が終わると身元もよくわからぬ流れ者とみなされる。


「今日は東、明日は西」と旅を続ける遊芸民や大道行商人は、一所不住の漂泊民として蔑みの目で見られ、顔には苦労の皺が寄っていた。しかし、彼らは貧しい民衆社会と深く結び付き、露天で賑わう寺社の縁日や夜店の「華」だった。


・市で出店を張るのは、各地の縁日を回っていた旅芸人である。江戸時代では「香具師」と呼ばれていたが、あとでみるように明治時代になるとテキヤと呼称が変わった。テキヤには、「的屋」の字が当てられている。『広辞苑』には、「いかがわしい品物を売る商人」で、「狙いが当たれば的に当たるように利益を得るところから、的に矢が当たることになぞらえて、テキ屋と呼ばれた」とある。


・大道芸で客寄せをやる本格的な売薬行商人はもう見ることができない。唯一の生き残りだった「ガマの膏売り」も、70年代には、その姿が見えなくなった。そのおもな理由は次の三点である。第一に、その日稼ぎで生活も不安定なので、後継者を育てることができなかった。第二に、人を集めるにはかなりの広場がいるが、戦後に制定された道路交通法などで大道を占有して店を張ることができなくなった。第三に、自然生態系の危機によって、蝦蟇(がま)そのものが姿を消していった。


彼ら遊芸民の多くは、近世身分制において、「穢多」「非人」「雑種賤民」の三種に分けられた被差別民層であった。文献史料で調べると、地方によって多少の異動はあるが、この三つの層のいずれからも遊芸民が出ている。


ほー!面白い、実に面白い!おススメです。(^。^)