「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録』


この本を読んで涙が出た。泣けた…。(T_T) 2011年3月11日津波の被害を受けた宮城県の地域紙・石巻日日新聞社は、輪転機が一部水没するなか、手書きの壁新聞を決意。「紙とペンさえあれば、新聞は出せる」伝える使命に突き動かされた記者のドキュメントなのだ。家族・親族の安否もわからない中、記者たちは最前線で取材を繰り広げ、避難所などに数ヶ所まで走り、貼り出された壁新聞が、被災者の貴重な情報源となり、人々を励まし続けた。使命感とは?ミッションとは?志とは?そのエッセンスを紹介しよう。


石巻日日新聞は1912年(大正元年)創刊の夕刊紙。宮城県東部の石巻市東松島市、女川町をエリアとして発行している地域誌で、部数は約14000部(大震災前の数字)。今回の震災において、周辺地域が甚大な被害を受けるなか、社屋の一階が津波で浸水、建屋内にある3機の印刷設備が一部浸水を受けましたが、社屋は奇跡的に損壊を免れました。しかし、電気をはじめとするインフラが破壊され、輪転機も動かすことができません。創刊99年。来年(1912年)で100年を迎える歴史ある新聞が、印刷できないという危機に陥りました

これまで永い間、この地域に生かされてきた私が、今こそ地域に対して、「できること」と「やるべきこと」は何か、という命題を突きつけられました。その答えは、明白でした。記者の気持ちも、同じでした。「地域の人たちから必要とされる情報を、きちんと選び、しっかりと伝えること」。それが我々の存在する意味だと、改めて実感しました。


経営陣も含め28人、震災の中を走り続けました。津波に飲み込まれながら、浮流物につかまり一晩漂流したのち、翌朝ヘリコプターで救出された記者がいました。車で逃げる途中、渋滞のために車から飛び出したところ、津波に後ろから追われ。走って山の上に逃げて生き延びた記者もいました。そして、津波の濁流に囲まれた社屋に、私と残る社員たちがいました。そして津波の濁流に囲まれた社屋に、私と残る社員がいました。手書きの壁新聞6枚は、「大津波警報」の防災アナウンスを聞く前に、取材へと散って行った6人の記者たちが、それぞれ違う場所で孤立しながら取材活動を続けたからこそ、生まれたものです。


生死と向き合う壮絶な状況下での取材が、徐々につながり、住民が必要としているひとつの正確な情報になっていく。その奮闘ぶりを追いながら、手書きの壁新聞がどのように誕生し、避難住民の方たちの目に触れるようになったのかを、ぜひとも書き残したい、という思いでこの本をまとめる決意をしました。


「今、伝えなければ、地域の新聞社なんか存在する意味がない」という言葉が突いて出た。毎日毎日、地域に貢献できることだけを考え、行動して生きていくことを選んで5年、自慢の社員たちにも、私の思いは浸透している。今こそ、この思いを実行しよう。「紙とペンさえあれば」と思った。輪転機は動かないが、新聞用ロール誌が水没を免れたのは救いだった。これをカッターで切れば、壁新聞用の紙はなんtかなる。あとはフェルトペンさえあれば、新聞は出せる。どんな壁新聞にするのか。題字、レイアウトはどうするのか。何枚くらい作るのか。手帳に書いた内容を、武内報道部長に話す。今日は、食事は何も取れなかった。空腹を抱えながら、車中泊となる。


・沿道で会う知人と交わす言葉が、「生きていたか」になっていった。そして再会できた喜びに、会う人同士、皆が抱き合っていた。この日から、悔しくて、悲しくて、そして嬉しくていっぱい泣く日が続くことになる。


・自分も闇の中を、手探りの中で動き回っていた。取材した情報を、何としても読者に届けたい。しかし、電話がつながらない。石巻市内はいたる所で冠水し、会社にも近づけない。今、振り返ってもずっと悔しい思いをしていた。それでも、取材を続けていたのは「記録し続けなければ」という思いだった。今もその意志は変わらない。


「地域に対する伝える使命」への意識…すごいなあ…。復興を心よりお祈りいたします。「愛する地域」の復興の足取りを伝えるもうひとつ手段としてホームページに「ウェブ版購読システム」では月間購読料は月1000円です。


石巻日日新聞
http://www.hibishinbun.com/