「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「野球の神様がいた球場 広島市民球場とカープの軌跡」

    


野球の神様がいた球場 広島市民球場とカープの軌跡


連続試合出場の世界記録を達成し、鉄人と言われた、元広島東洋カープ衣笠祥雄氏。(^J^) 通算2543安打(福本豊と並び歴代五位)、504本塁打張本勲と並び歴代七位)だから、スゴイよね。(^O^)


2009年に、51年の歴史を閉じた広島市民球場。平和のシンボル、赤ヘルの躍動の舞台となったこの球場への思い出を、衣笠氏が自らの自叙伝を絡めてつづる本。そのエッセンスを紹介しよう。


・古くから中学野球、高校野球が盛んだった広島で、カープは市民にとって復興のシンボルであり、その本拠地球場として建造された広島市民球場で行われるカープの試合は当時は唯一といっていい広島市民、県民の楽しみで、球場では熱狂的な応援が繰り広げられてきました。ときに過激な応援が選手を委縮させることもありましたが。12球団一とも言われた熱烈な応援は、カープの選手たちの大きな支えとなっていたはずです。


広島市民球場のファンはとにかく熱かった。それは球団創立の頃からで、金銭難に陥った球団の危機を「樽募金」などで自分の財布から少しずつでも球場のためにと支えてきた思いが、ずっと長く続いていたからだと思います。


・この景色を見ると、常々感慨にふけることもあった。好きな野球を思う存分できることが、戦争で志半ばで倒れた人もいることを思えば、なんと幸せなことだろうと、折に触れて思ってもいた。衣笠祥雄といえば、連続試合出場記録のイメージだろうが、広島市民球場でなければ、その記録はもとより、長く野球を続けてこれなかっただろう。チームがカープだったから、そして広島市民球場だったから、長く大好きな野球を続けてこられたと思っている。創立以来Bクラス暮らしが長く続いたチームにあって、僕やコウジ(山本浩二)を中心とした世代が、ゲームの中で鍛えられながら育てられるという環境を与えられた。


・1987年6月11日、プロに入って23年目、足掛け18年間続いた連続試合出場は、ついにルー・ゲーリックヤンキース)の「2130」に並び、そしてその2日後に更新した。僕のセレモニーで、広島市民球場のスタンドに向かって口を開いた。「野球の神様に感謝します」振り返れば、人生の半分以上を広島で過ごしていた。丈夫な体に生んでくれた親に感謝。調子を落としたときも期待し続けてくれたファンに感謝。じつも同じ表情で20年間のプレーを支え続けてくれた広島市民球場に感謝。たくさんの「ありがとう」を、心の中で何度もつぶやいた。


・プロに入って三年目、カープの監督に就任した根本陸夫さんからこう言われた。「キヌ、おまえは何をしたいんだ。時間というのは止まってくれないぞ。今、おまえは頑張る場所を持っているんだ。頑張る場所がある間に頑張らないと、いつか頑張れなくなるよ」「人が生きるとはどういうことがわかるか」「60歳になった生活をしていたいんだ」それまで反発ばかりしていたが、根本さんの言葉は一から十まで、素直に入ってきた。根本さんの言うとおりだ。今頑張らないと明日はない。そう考えるのに時間はいらなかった。


・根本さんに、「試合に出たければ、おまえはどうするんだ」と言われて答えられず、「じゃあ。衣笠という選手はどんな選手なんだ」と聞かれても答えられなかった。自問自答を繰り返した。僕は、野球を始めたころ、ボールを遠くへ飛ばすことが楽しいと思った。ホームランだ。ではホームランを打つためにはどうすればいいのか。それは強く振る、スイングスピードを速くする、ということしかない。フルスイング。この長打力こそが自分の売り物だったのだ。だからこそ野球を続けることができた。


広島市民球場の中で一番好きな光景はどこかと聞かれたら、一番長く守ったサードではなく、レギュラーとして定着したファーストでもなく、キャッチャーボックスから見たなんとも言えぬグラウンドの光景だと答える。キャッチャーとしてプロに入った僕にとって、このキャッチャーボックスから見る広島市民球場の姿は格別なものがあった。


・世界記録を達成したことで、いろいろな名誉ある賞をいただいた。野球界では王貞治さんに次いで二人目となる国民栄誉賞も。それに名球会、殿堂入り…。それらは、決して重荷になることはなかった。僕はそれらのいただいた数々の賞は、自分を守ってくれるものと考えている。野球に限らず、地位が人を作るということがある。野球でも打順が変われば、役割も変わる。賞をいただいたからこそ、そういう賞にふさわしい人間になりたい。それらを汚さない人間になりたい、いや、そうならなきゃいけない。本来いい加減な人間であることは自分が一番よく知っている。だからこそ、周りの人を裏切らない、恥ずかしい思いをさせないと強く誓った。


カープは日本のプロ野球で常に異彩を放ってきた。今となっては当たり前の「赤い帽子」も、当時は「赤=女性の色」という認識で日本で用いる球団はなかった。応援スタイルもそう。新しいものはカープから始まるといっても過言ではないほど、球界のフロントランナーでもあった。今の選手たちには、先輩たちがそういう歴史を培ってきたことを知っておいてほしい。そして、新球場のもと、カープの歴史を新たに加えていってほしいと願っている。


キヌさんのフルスイングはいまでも脳裏に焼きついているなあ。やっぱり野球っていいなあ。おススメです。(^O^)


    


野球の神様がいた球場 広島市民球場とカープの軌跡