一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

BOOK〜野性的な日本語!…『快楽の動詞』(山田詠美)

快楽の動詞 (文春文庫)

快楽の動詞 (文春文庫)

明治大学の先輩であり、主に大人の男女の恋愛・性愛を描く作家、山田詠美氏。(^u^)遅ればせながら初めて読んだこの本は、思わず笑ってしまうのだが、実に深い…。誰もが一度は考えたことがあるだろう、この「快楽の動詞」について。そのエッセンスを紹介しよう。


・私は行く。なんとも前向きな言葉である。しかし、行くを「ゆく」と読まずに「いく」読んだらどうであろうか。私が「いく」という言葉の持つ別の意味を知ったのは、高校に入学した後のことである。
「私はいく」が、「私は恋人と寝床に入り幸福のきわみにまでのぼりつめ涙する」というのと同義語だったなんてーーーー!!目からうとこが落ちるとはこのことか。「いく」「死ぬ」は、男性の書く、あるいは読むポルノ小説には、しばしばこの二つは登場する。あんな変な格好をしている時に、「いく」とか「死ぬ」とか口走るのは、えらいことである。快楽の慣用句ということか。


・別な女友達の話であるが、彼女は、エクスタシーに達する状態の時に、「今よ」と相手に伝えるのだそうである。「なんか、身もふたもないって感じだなあ」「そう?だって他になんて言ったら良いのか解らないじゃない。あの瞬間を表わす言葉はないと思うよ。日本語って本能には向かない言葉だよ」


何故に死ぬなどと口走るのだろう、と当時の私は非常に疑問に思ったのであった。性を表現する日本語は、なんと奥深いものであることよ。死ぬというのは、とてもネガティヴな言葉である。快楽の最中に、そのようなネガティヴな至福が訪れるものなのか。比べると、いくというのは、ずい分、ポジティヴな言葉である。同じ心身の状態を表すのに、どうして正反対の言葉を使わずにはいられないのだろう。快楽イコール死なのか、快楽イコール生なのか。セックスとは死にそうになるものであり、また生きたくなるものであるのか。


・事が終わった後、それまでの性行為は過去になる訳であるが、この時、ある種の男性は、質問をする。「いった?」というのがそれである。「死んだ?」という人はいない。当たり前である。殺人を犯した人間じゃあるまいし。変である。疑問形にならない「死ぬ」が何故快楽用語であるのか。謎は深まるばかりである。


・ところで、英語では、知られているように、「いく」ではなく「come」という。来るのである。決して「go」を使わないのである。性行為の際も、同じように表現する。お互いのところに来るのである。つまり向かい合っているのである。それに比べると、日本語の場合は、お互いが「行く」のだから、二人共、同じ方向を向いている訳である。英語のセックスは向かい合い、日本語の性は同じ方向を向きながらする、すなわち永遠の後背位である。動物の体位と同じである。私にとって、日本語は、時に複雑に入り組んでいて、手強い相手である。とても繊細である。それなのに、後背位。性描写を衝撃を受ける割には、意外と野性的なのである。


もうひとつ、「否定形の肯定」の三郎くん、は爆笑必至!こういう男性って本当にいるかも!?
日本語って深いなあ…難しいなあ…。おススメ!(^<^)