「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜国家的偉業「解体新書」の光と影…『冬の鷹』(吉村昭・新潮文

lp6ac42007-04-23

このブログでおなじみの吉村昭の傑作歴史小説未知のもの、困難なものに立ち向かう人間の姿には人一倍感動する!!!(T_T)


解体新書といえば、日本の医学史上画期的な出来事であった。そして学校では、杉田玄白が翻訳であると習った。あれっ?前野良沢って人もいたかも…?そんな気持ちで読み始めた。実は、翻訳の中心が良沢であり、玄白ら3人はアシスタント的な役割だったのだ。なぜならば当時オランダ語をわずかながら知りえたのが、良沢のみであり、3人はABC(アベセ)さえも知らなかったという鎖国の当時、唯一長崎にて開かれていたオランダ語通詞(当時の通訳)でさえ、話す聞くがわずか出来るのみであり、書かれた文書を読むことはおろか理解することさえもできなかった時代だったのである。



当時は、中国からの五臓六腑説が有力で、実際に人体のしくみが分かっていなかった。ところが、千住の刑場で人体の解剖(腑分け)に立ち会ってみて、今までの説が間違っており、オランダ医学の正確さとレベルの高さを知り、この翻訳を志したのだった。



『いかがでござろうか。この『ターヘル・アナトミア』をわが国の言葉に翻訳してみようではありませぬか。もしもその一部でも翻訳することができ得ましたならば、人体の内部や外部のことがあきらかになり、医学の治療の上にはかり知れない益となります。オランダ語をわが国の言語に翻訳することは、むろん至難のわざにちがいありませぬ。しかしなんとかして通詞などの手もかりず、医家であるわれわれの手で読解してみようではござらぬか』



クウ〜!杉田玄白の当時の情熱が伝わってくるようだ〜!(T_T)



集まった同士は、この難事業に文字通り、命を賭けて取り組む決意をするのだ。当時、良沢は47歳、玄白が37歳。しかしこの時代に、『ターヘル・アナトミア』を蘭仏辞書で、翻訳するという作業がいかに困難を極めたかが、ページを繰るたびにひしひしと伝わってくる。



「頭とは人体の最も上にあるもの」という一文を訳するだけで膨大な無駄と沈黙と迷走を繰り返すのだ。まるで地図を持たないまま見知らぬ土地へ行き、人を捜し出そうとするようなものだ。(>_<)



最も興味深いのは、良沢と玄白の対比。200年前に生きた二人の生き方が、現代に生きる人間の二典型にも思えるのだ



良沢は、一人で学問にいそしむ学者肌。社交嫌いで孤独を好む、気難しい性格で、完璧主義。他人と共同作業が出来ない。そして、翻訳は、医業よりもオランダ語研究が目的、訳語の中には、不明の語も多いのに、満足のいかない段階で『解体新書』を世に出すべきではないと不賛成であった。したがって著者の名前を載せることさえ拒んだのだ。多くの弟子入り志願者でさえも、人嫌いの性格のため、一切関わりを持たなず、名声と富には縁がなかった。



一方、玄白は、良沢を前面に押し立てて、モチベートした、ムードメーカー。お調子者(?)=世渡り上手で現場型で、八勝七敗主義。翻訳は、医業に役立たせるのが目的。オランダ語研究などには興味がなく、あくまでも手段であった。不明の訳語があろうとこじつけに近い訳語だろうと『解体新書』を早く世に問い、人体の正確さを世の医家たちに示すこと、医学の世界に新しい眼を開かせて、貢献すること。多くの人間を統率する非凡な能力は、多くの優れた弟子を育成することが出来た。そして江戸随一の流行医として名声も富みも得た。



ん〜、良沢も玄白がいなければ、玄白も良沢がいなければ、翻訳が出来ていなかったのかもしれない。絶妙なバランスと役割分担!いつの時代も現場主義コミュニケーション能力は必要なんだね…。( ..)φメモメモ



最後に良沢のこの名言。



「学を志すのに年齢のおそい早いはありませぬ。私がオランダ語の研究を志して長崎に遊学したのは、47歳のときでした」