時々、読みたくなる。特にエネルギーを使った頃、読みたくなるのが、東海林さだお氏のゆるーい文章。(・∀・)
処方箋でじゃなく「処方文」だね。これは!?(笑)
「早朝の築地魚河岸探検、鹿児島さつま揚げツアー、信州で夢の松茸狩りと、好奇心旺盛なショージ君。赤瀬川原平氏との爆笑対談も収録」そのエッセンスを紹介しよう。
【築地魚河岸見学ツアー】
朝の四時。あなたはいつもどういう状態で過ごしてますか。
「グーグーです。グーグーの真っ最中。グーグー佳境に入る、といったところですね」
まだ本当の人間ではない。トイレに行ったり、歯をみがいたりしているうちに、少しずつちゃんとした真人間になっていく。
朝、目がさめた瞬間、「47✕39は?」と、いきなり訊かれてもすぐには答えられないと思う。(ぼくは起きてても答えられないけど)
猫なんかも人間と同じですね。昼間でも、眠っている猫を突ついて起こすと、3秒ほどボンヤリしている。「2✕3は?」なんて訊いてももちろん答えない。3秒ぐらいたってようやく事情をのみこみ。急に真猫になってじゃれだしたりする。
【服飾の哀れ】
わたしは人間の体が哀れでならない。哀れで哀れで、見ていると涙が出てくる。
人間だけが、裸になると急に心細く、自信なく、不安定で、貧乏たらしく、哀れさえ誘う存在となるのだ。裸で立っている人間のみっともなさ、不安定さ、哀れさ。これに気づいたときから、これをおおい隠そうとする人間の試みが始まる。それが服飾の始まりである。
ベルトは哀れである。その業務は哀れである。ズボンの落下防止、そのためにベルトは腰に巻きついている。他の業務は一切ない。いってみればズボンの下請け仕事だ。腰に巻きついてじっとしている、というところが何とも哀れを誘う。
ランニングシャツは哀れである。穴だらけである。首用の穴、両腕用の穴、胴体用の穴、それぞれの穴があまりに大きい。布の部分があまりに少ない。穴の集合体と考えたほうがいい。何のためにこんなものを着用するのか。
靴は哀れである。じっと見つめてください。「オレはこんなものに乗っかって生きてきたんだ」「こんなオモチャのようなものを足に嵌め込み、前へ前へと歩いていたんだ」そう思ったらなんだか悲しくなってきたでしょう。いいんです、それで。泣きなさい。
その他、「行くぞ!さつま揚げツアー」「サッカーはヘンだぞ」「順序大研究」「老人力講座 開祖・赤瀬川原平」「冬季オリンピック大批判」「寅さんの宿」「大きい顔は、いい人だ」「西瓜をめぐる冒険」「58歳の告白」「フタを叱る」など。
ところで「明るいクヨクヨ教」ってなんだろう?本を読む限り分かりませんでした。(笑)オススメです。