「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ビートたけしと北野武」(近藤正高)

 


ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)


大学の大先輩のビートたけし。お兄さんの北野大さんも同じ明治大学生田校舎の工学部。ワタシも兄も同じ生田校舎の農学部という共通点があることで格別な想いがあるのだ。(・∀・)


さてこの本。「差別・暴力・宗教・科学…現代社会の「欺瞞」、そして「ビートたけし」と「北野武」の「二面性」にも迫った、画期的たけし論。そのエッセンスを紹介しよう。


ビートたけしは実在の人物をドラマや映画でたびたび演じてきた。連続殺人犯の大久保清大石内蔵助近藤勇土方歳三東条英機、田岡一雄、平塚八兵衛金嬉老(きむひろ)、関武志、千石剛賢(たけよし)、立川談志など。この他にも元首相の田中角栄や元日本兵小野田寛郎など、ドラマ化が企画されながら結局実現しなかったケースもいくつかある。全体的に目立つのは、やはり昭和の事件当事者だ。これら事件とたけしのバイオグラフィを重ね合わせれば、これまでにない「たけし論」が成立するのではないか。そう思ったのが本書執筆のひとつの動機である。


・俳優としてのビートたけしは、「役のなかで必ず自分の顔をだす」タイプか「べつの人間に生まれ変わる」タイプか、いずれのタイプに当てはまるのだろうか。「赤めだか」立川談志もけっして似てはいなかった。ただ、たけしは物真似することをあえて避けているふしがある。田中角栄を演じたときも角栄ほど物真似された人はいないからと『真似をしないように気を付け、いつの間にか似てくるのがベストだね』と語っていた。


『オレはなにやってもオレだし、オレがやってる役なんだもんえん。ヤクザやってもオレのヤクザだし、オレを連発するしかないのよ。結局のところ』同じ文章のなかで、たけしは演技力というものに疑問を呈している。彼に言わせれば『演技がちがうとか、まえの役やったときと、今度の役やったのでは、演技がまるっきりちがってて、スゴイ』なんてのはウソだという。


たけしの演じてきた実在の人物は、いずれも癖が強く、テレビで取り上げるには非常に難しい人物ばかりだ。およそ暖衣飽食とは縁のないところで、世界を挫折と裏切りを通して認識した男、二つの相反する立場に立ち、二つの顔を持つ役柄が多いというのが、彼の演じる役柄の最大公約数である。なぜたけしにはこのような役ばかりが回ってくるのか?そういう性格が彼のなかに本質的に備わっているからだろう。彼自身「振り子の理論」と称して、振り幅が大きいほど反対側に戻ったとき大きな力が出せるとの持論を展開してきた。過激な暴力は過激な愛になりうる。映画監督の北野武がシリアスなタッチで感動させる一方で、芸人のビートたけしがコントやギャグで笑わせることも、この論理によって説明できよう。


・たけしの母・北野さきは子供たちの教育に熱心だった。さき自身は幼いころより貧乏で苦労してきただけに、子供たちにはちゃんとした教育を受けさせ自由に仕事を選べる資格を身につけてやりたかったという。『御飯が食べられてこその学問だ。それも工学部というが私の持論』幼くして死んだ次男をのぞき、長男の重一、三男の大、そして四男の武と、息子たちはみな工学部に進学した。


・「うちの家で勉学をやめるってのは、逃亡するのと同じことでさ、おふくろの夢を壊すことでもあったんだよね。つまりは独り立ちしたかったの。勉学をやめて、どっか別のところで生きるために、家族と離れたの。おふくろが俺に対して抱いていた夢を断ち切る必要なあったんだ。」


その他、「母親の喪失ー大久保清北野武を分けたもの」「差別と暴力ー金嬉老三億円事件・写真週刊誌」「宗教と科学イエスの方舟エホバの証人・バイク事故」「戦後ニッポンに内在する二面性と欺瞞」など。


やっぱり人間って二面性があるよね。そのギャップが魅力になるんだね。オススメです。(・∀・)


 


ビートたけしと北野武 (講談社現代新書)