「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「うるさい日本の私」(中島義道)

この本は実に考えさせられる…。こういう人がいることを見過ごしてはならない!「バスや電車の中、駅や観光地、デパートから不用品回収車まで、日本中いたるところで“おせっかい放送”が聞こえてくる。「戦う哲学者」が孤軍奮闘、静かな街を求めて「音漬け社会」に異議を申し立てた話題の書」そのエッセンスを紹介しよう。


1984年ウィーンでの留学が東京に戻ると、JR各駅の「自動改札をご利用下さい」「駆け込み乗車はおやめください」のエンドレステープ、動く歩道橋の「まもなく終点です。足元にお気をつけください」のテープ音、バス停、銀行、郵便局など日本中テープによる勧告、警告、注意、お願い…の大洪水の音の暴力…。あれから「音」は増えることこそあれ減ることはない。


・私と同じような疑問を抱き苦しんでいる同胞の運動「静かな街を考える会」のメンバーは多くの日本人の感受性とずれているために、理解されるのが恐ろしく難しいということである。


・大多数の日本人は、われわれが銀行に行くのも、スーパーに行くのも、電車に乗るのもほとんど「命がけ」であり、耳栓をきっちりし、アイポッドの音量を最大にし、しかもいたるところでわれわれを待ち構えている「アアしましょう、コウしましょう」という爆撃を受けるのを恐れて、回り道をし、急ぎ足で駆け抜け、それでも甲高い「◯◯◯◯をお願いしまーす」という声の矢に当てられて、ほとんど生きる気力をなくなること…はわからないであろう。


「病気(アスペルガー症候群)じゃないの」と診断してくれる。だが、私は人々のざわめきや足音が聞こえるような静かな街を望み、あれこれお節介放送のない、機関銃のようなスピーカー放送のない、そう、ヨーロッパの都市のような音環境を望む者が「病気である」とはどうしても思えない。むしろ、ますます「正しい」と確信してくる。


私は買い物に行くことができない。ほとんどすべての店はすさまじい音楽をかけており、エスカレーターの注意、禁煙の呼びかけ、催し物の案内、呼び出し…地獄そのものである。


本人にとっては苦痛であるのに、たとえ告白したとしても「ささいなこと」として片付けられてしまう。したがって、それを訴えること自体が「わがまま」だとみなされ嫌われる。とすると「自分で解決する」ほかないわけだが、さしあたりいかなる解決も思い浮かばない。しかもこれは「考え方」によって変わるものではなく、忘れることもできず、日々いや刻々苦痛を覚えねばならない。


なるほど!もっともだ。野球もそうだよね。ラッパや楽器をやめて純粋な球音のプレーを見たいものだよね。オススメです。(・o・)

静かな街を考える会
http://sky.geocities.jp/bunka_so_on/